レヴァンドフスカ」タグアーカイブ

ピアノから大空へ女性パイロット  ヤニーナ・レヴァンドフスカ

 

ヤニーナ・アニトニーナ・ドヴボル=ムシニツカは、1908年4月22日にハルキィエフに生まれました。
父はポーランドのサンドミエシュ出身で、日露戦争にも従軍したことのある帝政ロシア軍の中将、後年ポーランド軍の総司令官ともなったユゼフ・ドヴボル=ムシニツキ。そして母のアントニーナは類まれな音楽の才に恵まれた女性でした。 

1918年に帝政ロシアが崩壊すると一家はポーランド西部ヴィエルコポルスカ県に移住。幼いころから母親から音楽の英才教育を受けていたヤニーナはポズナンの名門女子高等学校に通い、続いてポズナン音楽院でピアノと声楽を学びました。
スキーや乗馬が好きで、高校生の頃からは当時世間から注目を浴びていた飛行機にも深い関心を持ち始めていました。

音楽院在学中にポズナン公演を予定していた劇団と歌手として出演する話が持ち上がりましたが、その広告の中に娘の名を見つけた父の逆鱗に触れてしまった事が彼女のその後の運命を変える転機になりました。
 得体の知れない三文劇団にドヴボル=ムシニツキ家の名が出るとは何たることと厳しく咎める父に納得がゆかず、卒業寸前に音楽院を退学。
そして、当時は将軍家の子女の仕事ではなかった郵便局勤めを始めて、自活を試みた時期もありました。
 じつは給料よりも職場で使われていた無線と電信技術が学べることがこの職場の大きなメリットでした。飛行機に乗るという夢に近づくための第一歩!パイロットになるためにはこういった技術に関する知識が欠かせなかったのです。

ヤニーナは大空を飛ぶ日を夢見て、ポズナン郊外のワヴィツェ空港に暇があれば通っていました。飛行クラブに所属し、最初はグライダー、そしてついには飛行機の操縦免許を取得しました。やがてポーランド軍に配備されていたRWD8型機の操縦訓練に取り組み、この型の飛行機を乗りこなす数少ない女性パイロットとして、さらにヨーロッパでは女性初の高度五千メートルからのパラシュート降下に成功した人物としてその名が知られるようになりました。 

今度ばかりは父親も頭ごなしに叱る理由をみつけられず、「パラシュートで飛び降りるようなジャジャ馬娘など、嫁の貰い手もないだろう」とぼやいていていたと言われます。 

しかし間もなく気の合う飛行機野郎、ポーランド軍の中佐ミェチスワフ・レヴァンドフスキが現れます。1939年6月に2人は結婚し、別々の町にあった旧居の処分や新居の準備、また9月にワルシャワで開催されることになっていたグライダー選手権大会への出場に向けて短い夏を奔走していました。
世の中にはドイツがポーランドへ今にも侵攻するのではという噂が広がり、不穏な空気が張りつめていました。この不吉な予想は現実となり、8月末にはついに予備役の軍人に召集がかかったのでした。

開戦3日目の9月3日、少尉の軍装に身を包んだヤニーナは、小さなトランクを持つと指定の部隊に合流するために飛行クラブの仲間3名とともにポズナンを発ちました。その日、ほぼ入れ違いで帰宅したミェチスワフはヤニーナが駅へ向かったと知って大急ぎで後を追いましたが、列車は目の前で発車。それが2人の永遠の別れとなりました。

ヤニーナと仲間3名はポーランド東部へ移動中のポズナンの第3航空基地の一隊に出会い、彼らと行動を共にし、5日後にはポーランド東部の町ルブリンを経てフシャティン(現ウクライナ領)に到着しました。しかし、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えて突然ポーランドに侵入。そのため部隊は南ポーランドへ向かう命令を受けて移動したものの、ソ連軍に包囲され、指揮官は降伏して、投降するという苦渋の決断をしました。

こうして捕虜となった将兵のなかにヤニーナ・レヴァンドフスカも入っていました。ソ連のオシタコフ捕虜収容所を経て、1939年12月にコジェルスク捕虜収容所に移されます。ポーランド人捕虜はNKVDによる厳しい取り調べと身元の調査が行われており、反共産主義者、帝政ロシアの軍人で、ロシア革命後は共産主義に反対する白軍を率いて戦ったユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ将軍の娘であると即ばれなかったのは奇跡と言われています。

2万数千のポーランド軍将校が虐殺されたカチンの森の事件の中で唯一見つかったと女性の遺体。

ヤニーナ・レヴァンドフスカが亡くなったは1940年4月22日。奇しくも彼女の32回目の誕生日のことでした。