映画『大脱走』の舞台へ――ポーランド・ジャガンを訪ねて

1944年3月の連合軍捕虜の大脱走
2026年9月、ポーランド西部の町ジャガンを訪れた。
こには、スタラグ・ルフトⅢの跡地があり、映画『大脱走』のモデルとなった事件が起きた都市だ。かつての空軍捕虜収容所は現在博物館になっている。今回の旅で、実は一番期待していた場所だった。ジャガンは、18世紀のプロイセン時代から軍が駐屯してきた町で、現在もポーランド軍の部隊が置かれている。第二次世界大戦中はドイツ領で、ザーガン(Sagan)と呼ばれていた。この町には、1846年に鉄道が開通し、その後、複数の路線が集まる交通の拠点として、地域の産業や軍の輸送を支えるようになった。
(上の写真 ジャガンのスタラグ・ルフトⅢ跡地にある脱走トンネル「ハリー」の出口跡。松林のなかに出口を示す標識と、大脱走に参加した連合軍空軍将兵の記念碑。)
そして、1942年に町の郊外に設けられたのが、連合国軍の空軍の将兵を収容する「スタラグ・ルフトIII」(Stalag Luft Ⅲ)だった。ジュネーブ条約の協定による待遇が保証された収容所であったが、立地的には、脱走を難しくする条件がそろっていた。中立国や国境から遠く、収容所を抜け出しても、ドイツ国内を長距離にわたって移動しなければならない。周辺の林は市街地から捕虜収容所を隔てていた。さらに、崩れやすい砂質の地盤は、トンネル掘りを妨げると考えられていた。
しかし捕虜たちは、バラックの地下にトンネルを掘り進めた。そして脱走した者の一部は、ザーガン駅から列車に乗り、国外を目指したのである。ところで、意外だったのは、彼らの暮らしだ。収容所と名がつくと、ナチスが各地に築いた強制収容所をイメージしがちではないだろうか。ところが、ここは、1929年のジュネーブ条約によって強制収容所とは性格がまったく異なり、赤十字の支援もあった。バラックを歩きながら館長は「約1万名の収容者に対して、死亡者は約60名だった」と語った。その数字がここの住環境がかなり良かったということを裏付けてくれる。
さらに、収容所内には大学レベルの教養講座や演劇、コンサートなども実施され、またスポーツ活動を行うことが許されていた。唯一不可能だったことは収容所の外に出る事。つまり、映画『大脱走』に映っているような日常の生活があったわけだ。最後に教えていただいたのは、映画『大脱走』でスティーブ・マックインがバイクに乗って国境を越えようとするシーンは、完全なフィクションで、それ以外はほぼ史実に近かったということだった。

【写真】捕虜が住んだバラックは、英国人の有志が築いたもので、当時の通りの木製の寝台や食卓、ストーブが並ぶ。
ただ、生活の場が整えられていても、家族と離れ、自分の意思でどこへも行けない日々が快適で楽だったはずはない。バラックの部屋にはストーブがあるが、寒さが厳しい冬には、これだけでは十分な暖房はできなかったそうだ。
捕虜たちは生活の中で、脱走の準備を進めた。脱走は自由を取り戻すためだけでなく、敵に捜索の人員や時間を使わせる、抵抗の手段でもあったそうだ。また、捕虜には隙を見て脱走を試みる義務があったという話には驚いた。脱走をするとどうなるのかと質問したところ、ジュネーブ条約に従って、脱走者は捕まれば、独房にしばらく入れられ、そしてまたこのバラックに戻されるだけだったとのことだった。

【写真】脱走に使われたトンネル「ハリー」の構造図。
地下約9~10メートルを通り、全長110メートルに及んだ。
1. 落とし戸の上に設置されたストーブ(トンネル入口を隠すためのもの)
2. 入口の縦穴
3. 砂を排出するための部屋
4. 作業場
5. 砂を入れる箱
6. 空気ポンプ
7. トンネルの床下に埋設された送気管
8. 小型トロッコを使って移動するトンネル掘削作業員
9. トロッコ用レール
10. ピカデリー(Piccadilly)― トンネル内の乗り換え地点
11. レスター・スクエア(Leicester Square)― トンネル内の乗り換え地点
12. 出口の縦穴
13. 監視塔 ― 捕虜たちが「雇われ殺し屋の塔」と呼んでいた場所
14. 冷蔵施設
15. 病棟
16. トンネル掘削作業を探知するため、地中に埋められたマイク
17. 警報用ケーブル
補足説明
トンネル内にはトロッコ用のレールが敷かれ、「ピカデリー」「レスター・スクエア」など、ロンドンの地下鉄駅にちなむ地点名が付けられていた。
映画『大脱走』の脱走計画には、三本のトンネルが使われた。実際に使われたのはハリーで、地下は約9〜10メートル、全長は約110メートル。人が通れる高さと幅は50センチ余りだった。驚かされたのは、それを支える工夫だった。ベッドの板を補強材にし、ミルクの空き缶を送風管に変える。木製のレールと台車で砂を運び、掘り出した砂は衣服の中に隠して少しずつ地面に散らした。さらに、民間人の服や偽造書類、地図も用意するというこの大計画には約600人が関わり、脱走のためにそれぞれの技術や知識を提供していた。

【写真】脱走用トンネルと台車の再現展示。実際のサイズがわかりやすい。
雪が積もり、春はまだと思われた1944年3月24日から25日の夜、脱走は実行された。しかし、出口は予定していた森まで届いておらず、監視兵の動きを見ながら一人ずつ外へ出なければならなかった。一人がトンネルを通り脱出するのに約15分かかり、200人を超える脱走希望者のうち、夜明けまでに76人が収容所を離れた。

【写真】ジャガンの捕虜収容所を中心に、脱走者たちの移動先や関連地点を示した地図。1944年の「大脱走」が、広い地域に及んだことを伝えている。
脱走後の逃走は決して順調ではなかった。ドイツ当局は大規模な捜索網を敷き、鉄道駅や国境などの警戒を強化した。最終的に英国に戻れたのは3人。残る73人は再び捕らえられた。
この集団脱走の知らせを受けたヒトラーは激怒し、捕らえた脱走者を射殺するよう命じた。当初は全員の殺害を命じたとされるが、ドイツ空軍首脳らの反対を受け、最終的に50人が対象となった。再逮捕された捕虜のうち、対象とされた者は秘密国家警察ゲシュタポに引き渡された。彼らは収容所に送り返されるという名目で移送され、その途中、人目につかない場所で射殺された。遺体は火葬され、遺灰の一部はスタラグ・ルフトⅢに送り届けられた。
ドイツ当局は、捕虜たちが移送中に再び逃走を試みたため射殺したと説明した。しかし、実際には上層部の命令に基づく計画的な殺害だった。第二次世界大戦当時、捕虜の待遇は1929年のジュネーブ条約によって定められていた。捕虜は人道的に扱われなければならず、脱走を試みて再び捕らえられた場合も、脱走行為そのものについては懲戒処分にとどめることとされていた。50人の殺害は、この条約に明らかに違反する行為であった。この件に関しては、戦後、事件の全容を解明するために大規模な捜査が行われ、殺害に関与したゲシュタポ関係者らが戦争犯罪として裁かれた。
映画『大脱走』では、捕虜たちが知恵と技術を結集し、厳重な警備をかいくぐって自由を目指す姿が描かれている。トンネルの掘削や偽造書類の作成、列車での逃走など、映画の場面は今も鮮明に記憶に残っている。
しかし、ジャガンの収容所跡を実際に訪れると、映画を見ていたときとはまったく違う思いが湧いてくる。林の中でトンネル「ハリー」の出口に立つと、映画ではひと続きの場面だった作業に、何か月もの時間がかかっていたことを考えずにはいられなかった。板を集め、砂を運び、仲間のために書類を作る。その積み重ねが、脱走を可能にしたのだ。「ハリー」の出口跡。その前で、ここから地上へ這い出した捕虜たちが、その後どのような運命をたどったのかを考えずにはいられない。脱走者の3分の2、50人の命を奪われたという事実も、この場所の歴史の一部なのである。
さて、博物館では、前年に成功した「跳び箱脱走事件」も紹介されている。中が空洞の跳び箱に掘削役を隠して運動場へ運び、仲間が体操をする間に、その下からトンネルを掘る。これを繰り返し、1943年10月、この作戦にかかわった3人が無事に脱走して最終的に英国へ帰還した。この事件も後にTHE WOODEN HORSEという題名で映画化されているそうだ。

映画『大脱走』がジャガンを訪問するきっかけになったが、映画を超えて深く考えさせられた旅となった。この映画をご覧になった方には、ぜひ訪れていただきたい場所である。
ジャガン捕虜収容所博物館(Muzeum Obozów Jenieckich w Żaganiu)
所在地:ul. Lotników Alianckich 45, 68-100 Żagań, Poland
公式サイト Muzeum Obozów Jenieckich w Żaganiu
アクセス
鉄道を利用する場合は、ジャガン(Żagań)駅が最寄り。ジャガン駅から博物館へは、タクシーを利用すると便利です。
開館時間
月曜日休館 火~金 10:00 - 16:00 土日 10:00-17:00
※11月1日~3月1日は、土・日曜日も10:00~16:00となります。
※見学に関するお知らせ
2026年11月5日確認時点で、公式サイトには本館が改修工事のため当面休館との案内が掲載されています。復元バラック内の展示は引き続き見学できます。訪問前に最新の公開状況をご確認ください。
問い合わせ
電話:+48 68 478 49 94
メール:muzeum@um.zagan.pl
博物館公式サイト/見学案内
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